念願かなってWebデザイナーに転身。そこで運命の先輩に出会う
坂本氏は、「笑うと思うんですけど…」と前置きしてWebとの出会いを話してくれた。
「最初にクールだと思ったのは小室哲哉さんの個人レーベルのWebサイトでしたね。黒バックに白い文字で、サウンドが鳴って、適度に動いて…これが新しい時代の表現だと衝撃を受けましたよ。実は、専門学校でHTMLの講座などはあったんですが、その内容についてはほとんど分かっていなかったんです。それでも、実際にクールなサイトを目の当たりにして、“Webは面白そうだ、HTMLは分からないがデザインはやってみたい”という気持ちが芽生えましたね」
だが実際には、Webのデザインをすぐに始められたわけではなかったのだ。1997年、二十歳の時にある企業に就職するが、そこはいわゆる広告デザイン会社だった。
「もちろんWebのデザインをやりたいということは最初から伝えていましたが新入社員がいきなり新プロジェクトを立ち上げるというわけにもいかず、最初はDTPグラフィックスのデザインが仕事でした。YMCKの製版指定をしてDICで特色の色指定をする、というような伝統的なデザインの仕事ですね」
それでも、ちょうどさまざまなことがデジタル化される過渡期であり、例えば“ブランドのロゴをいろいろなところで使い回せるようにデジタルデータとして作ってくれ”というような仕事もあった。「専門学校で3D画像を作って遊んだりしていたので、ロゴをIllustratorで作るなんて、僕にとっては簡単だったんです」
会社では、デジタルに詳しいデザイナーとして新人ながら信頼されていたが、Webへの思いは断ちがたかった。そこで、Web専門の会社に転職することにした。当時は今のようにWebを扱う企業が乱立しているのとは隔世の感で、名の通ったWebだけの専門会社は関東のキノトロープと関西のパイナップルカンパニーというような状況。そして、坂本氏はパイナップルカンパニーに就職することとなった。
「その会社で、結果的に自身の仕事の方向性を決めることになる二人と出会ったんです。まず面接をしてくれたのが、“Webのことなら何でも知っている生き字引のような人”という凄腕ディレクター(編注:坂本氏は彼のことを話す時、今でも“師匠”と呼ぶ)。そして同じデザイナーの中に、天才デザイナーがいたんです」
そのWeb専門会社での仕事は刺激的だった。凄腕ディレクターと天才デザイナーの仕事を見ながらそれを学び取り、HTMLのコーディングをして実際の作業に習熟していく。
制作会社は職人の工房のようなもので、師匠や先輩の仕事を見て盗み、一心不乱に手を動かすようなことが重要な場面もある。ただし、自分ができるようになればなるほど、すごい人の大きさも分かるようになる。
「ディレクターとしてはこの師匠を超えられない、デザイナーとしてはこの天才を超えられないと思って、それなら自分だけの道を進もうと、1年立つ頃には会社を辞める決意をしました。その会社で経験した品質への追求があまりに高かったから、もうどこにいっても、あるいは一人で独立しても十分やっていけるほどのスキルが身についたという自信もあったんです。次に就職した小さなベンチャー企業でもよいのでデザイナー兼ディレクターとしての仕事をこなし、その自信は過信ではないことも実感できましたね」
そんなある日、そのWeb専門会社で同僚だった人に「東京で起業したから手伝ってくれないか」と声をかけられた。生まれも育ちも関西の坂本氏にとって、「東京のWeb制作会社」は魅力的に聞こえた。さらに、例の師匠たる凄腕ディレクターもそこで一緒にやっているという。師匠に「大変だから手伝ってくれ」と言われれば、否やはない。