優れたARは、優れた“間”を持っている
AR三兄弟の川田さんは、読書家でもある。この取材でもお気に入りの一冊『大日本字―大日本タイポ組合の文字全集 』を紹介してくれた。同書は漢字、アルファベット他、さまざまな文字を解体し、新しい文字の概念を探る実験的タイポグラフィ集団・大日本タイポ組合の著書。膨大なタイポグラフィのパターンと、文字が伝える機能美について惜しみのない挑戦が書き綴られた辞典的な名著である。(編注:4月19日に川田さんは、大日本タイポ組合はOepnCUでイベントを開催) こうした著書からも垣間見れるように、川田さんの好きな本というのはやや小難しい文学だったり、きめ細やかな辞典のようなものが多い。しかし、実際のAR三兄弟の表現はドット画などで描かれたシンプルなものだったり、ナンセンスギャグ的なものが多い。このギャップにはどんな背景があるのだろう? 「ARはあくまで拡張なので、半分想像力の助けを借りて完璧になるものだとAR三兄弟では考えてますね。例えば、ARを世に印象づけた『セカイカメラ』が起こす現象は、可視化しなくていいものまで可視化してしまうところにあると思うんですね。もちろん革新的だったのですが、結果的にノイジーな街として可視化されてしまった。何でもかんでも可視化される網羅性というのはARの場合それほど必要ではなくて、“何が・どのよう”に可視化されるかが明確で、その限定性の中で自由に遊べることが大切だと思うんです。」優れた本というのは、言い切らずに余白を残すことで、そこに没入できる“間”をあえて作っている。そうした間の捉え方がARでも重要ですと川田さん。 たしかにAR三兄弟の作品の数々はどれをとっても、人が自由に遊べる余白を残してある。パート1のファッションショーも、東のエデンシステムでも、人がそこに入って自由な見方ができたり、好きなことを言えたりといった“間”がある。 「自分の想像力で補ってひとつの体験を作り上げるのは日本人のすごいところだと僕は感じています。例えばアニメーションの場合、海外の白雪姫とかは、ひとの動きのトレースから入るほどの緻密さです。でも日本は1秒8コマというルールが決まっていたので、そこまできめ細かい表現にならない。しかし、見る側の想像力と相まって、きめ細かく描き出したもの以上に表現が高まる技巧が凝らされているのです。僕はこうした部分こそ、日本のスゴいところだと思います。受け取るひとの想像力を信じることで独自の表現をめざすという視点ですね。AR三兄弟でも心がけたいと思っています」と川田さんは話す。 思えば生花や建築、造園でも、日本人は”間”を重んじる。適切な“間”を作品に与えられることが完成度の高さを左右する文化だ。そしてその間に入って、人は想像力を膨らませ、俳句や詩歌など、さまざまなAR表現を生み出してきた。時代を経てもなお、そういった“間”の創造性が、ハイテクのデバイスによるARにも宿るというのはとても面白い。 これから、より広がってゆくARの表現。AR三兄弟の活躍には目が離せなくなりそうだ。